HISTORY
1945.8-1962戦後の時代PART 3
戦後の幕開け
終戦後については初川メモがある。ほぼそのまま転載する。
- 1945年10月
- 米軍第八軍 技術顧問 out sider(外部協力者) 土井口
- 1946年3月
- 葉山、シュトル、シュッツ?入社 事務所所在地 千鳥町
- 1946年8月
- トルム(副所長)、ユリ入社 米軍基地 横浜、淵野辺(トルムはテーテンス氏の後に建材社に入社し、10年程度重複。ユリはテーテンス氏長女)
- 1950年
- テーテンス事務所開始
上智、聖心、聖母、スタンダードオイル、ICU(国際キリスト教大学) レーモンド、ヴォーリズ等より仕事が来始めた
- 1951年
- テーテンス氏 第八軍を辞める
- 1953年
- テーテンス事務所 工事を始める
- 1955年
- 工事部発足(テーテンスエンジニアリングサービス)
1945年8月に終戦となり、一時、敵国外国人として収容所に入れられたという話も有るが10月には米軍の技術顧問になっている。米軍にとってもテーテンス氏の優れた技術が必要であったのである。副所長の初川メモに、携わったと推測される計14基地として千歳、八戸、羽田、立川、横田、横浜、根岸、相模原、淵野辺、厚木、成増(朝霞)の一覧が書かれている。第八軍は東日本担当で有ったが、西日本についても名古屋、小牧、大阪、伊丹、博多などの記載がある。
暖房方式としては蒸気と高温水をトレンチや架空配管で供給している。規模は横田、羽田、蒸気量50ton×2と記されている。この経験が後の上智大学(蒸気)、国際基督教大学(高温水)、宮城学院(高温水)の構内地域冷暖房に生かされていく。
1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が勃発すると第八軍は朝鮮へ移動しており、丁度その頃米軍技術顧問を辞めている。1950年にテーテンス事務所開始とある。いよいよ現在のテーテンス事務所としての形が表れてくる。設計と同時に施工部門も他社から高原、佐藤与志、安達を迎え本格的に始動始める。
葉山成三の入社
戦後のテーテンス事務所にとって大きな出来事は葉山成三の入社である。テーテンス氏死後テーテンス事務所を受け継ぎ、発展させ、今日の形態に育て上げ、40年以上所長を務めた。
葉山成三の簡単にプロフィールを紹介する。
- 1927年(昭和2年) 東京生まれ
旧制東京府立工芸学校 精密機械科卒業後、海軍特別幹部練習生として勤務、終戦を迎える。 - 1946年(昭和21年) 19歳
エー・ピー・テーテンス・コンサルティング・エンジニヤーに入社
初川メモには 昭和23年葉山、松田平田の出向社員となり横田基地の設計とある。松田平田設計事務所ホームページに「昭和21年横田、横浜出張所を設ける」と掲載されている。まだ年齢21歳、実務経験2年の若造である。そんな年齢で何が出来たのか、実務の中で人材を育てていった時代であったのであろう。まさしく葉山は50年に渡る実務の人であった。
閑話休題
私(佐治)が入社した時、葉山さんは45歳であった。頭をポマードで七三に分け黒縁の眼鏡を掛けちょっと怪しい雰囲気を持っていた。技術的なことはほとんど初川副所長や先輩の河野さんから教わっており、葉山さんからはあまり教えてもらった覚えはない。設計者というより経営者という感じで、よく経済評論家の講演を聴きに行っていた(下村治という名前を覚えている)。どんな仕事も同じかも知れないが、我々の仕事は単に技術屋ではなく多面的な知識を持っていなくてはならないということではないだろうか。
葉山さんはテーテンスさんのことを「怖くてケチ」と表現していたが、そんな面も受け継いでいるようである。テーテンスさんと葉山さんの会話は英語であったと初川さんがおっしゃっていた。
法人化以前の仕事
旧経歴書は1986年以前については年度の表示が無く、物件名、システム、所在地が記されているだけでいつ頃の物件であったかはっきり分からない。主な物件名をインターネットで調べるとおよその建設時期が推定でき、それにより法人化以前の仕事がある程度、浮かび上がってくる。主な物件を列挙してみる。
- 1950年
- 神戸女学院、聖心女子大学
- 1951年
- 上智大学、国際基督教大学
- 1954年
- 平和祈念堂(村野藤吾)、聖母病院
- 1959年
- 宇都宮ビル(ヒートポンプ式空気調和)、姫路聖マリヤ病院、清泉女子大学、長崎聖フランシスコ病院、聖路加病院、在日本国ドイツ大使館
- 1960年
- 神戸海星病院(空気調和)
戦前から引き続き大型物件としてはキリスト教系の学校、病院が多い。神戸海星病院は双星社竹腰建築事務所の設計であり開設者の竹腰健造氏は日建設計の前身である「日建工務所」の創設者でもある。以前、テーテンス事務所に残っている古い書類の中に「日建工務所」と記された見積書を見たことがある。当時、キリスト教系の仕事では建築事務所とは別に設備だけで直接契約をする例があったが、竹腰建築事務所との仕事では、その様な物件が多かった。その他にも聖心女子大学、姫路聖マリヤ病院、長崎聖フランシスコ病院等沢山の仕事を一緒に行っている。神戸海星病院ホームページ「デジタル回顧展、定礎式1960年代」の写真の中に当時の社長の福田氏(蝶ネクタイ姿)と葉山が並んでいる写真が掲載されていた。

広島(世界)平和祈念堂は、経歴書には広島平和祈念堂と世界が抜けているが時期としては同じ物件のようである。今まであまり気に掛けていなかったが村野藤吾氏の設計であり、当時の建築界で大きな話題になっていたようである。
宇都宮ビル(ヒートポンプ式空気調和)と有るがヒートポンプの実用化としてはかなり古いのではないか、当時のヒートポンプはまだまだ低効率で、補助ヒーターの容量が大きく、ヒートポンプ暖房ではなく電気ヒーター暖房ではないかと思えるほど暖房効率が悪かった。
この時期はまだまだ暖房主体で冷房、空気調和はあまりない。暖房は温水と蒸気があるが、温水80%、蒸気20%くらいの割合になっている。方式欄に国際基督教大学理工学部校舎、スイスチバ製薬工場では空気調和、恒温恒湿という記入があるのが目だっている。